平泉(紅葉の中尊寺と陸奥の浄土)   
    かなり前のことだが、仕事で近くに出かけた時、中尊寺の金色堂を慌ただしく拝観したことがある。当時歴史に関心が薄かったせいか金色堂以外はほとんど記憶に残っていない。今年6月の下旬に、熊野三山から高野山に向かう途中で、平泉の世界文化遺産への登録が正式に決まったとのニュースを聞いた。
 世界遺産の登録申請では、対象を中尊寺、毛越寺、観自在王院跡、無量光院跡、金鶏山に絞り、「浄土思想」を全面に出して獲得に成功したとのことである。それを聞いて、無知の旅人は藤原三代の繁栄や蝦夷との融合政策の推進に浄土思想が大きな役割を演じているのではないかと考え、そしてこれから訪ねる高野山の空海の密教思想との違いなどに思いを馳せた。近いうちに訪れようと機会をうかがっていたところ、幸いに知人が「紅葉の中尊寺詣」に誘ってくれ、二つ返事でお供をすることになった。
 
     
   紅葉の中尊寺  
   
 
中尊寺の参道「月見坂」の始まり

樹齢300年を超える杉木立
 
     
 

朝日を透す紅葉  

坂を登り切るころ紅葉はさらに美しくなる 
 
 
   
 
経蔵
 
鐘楼
 
 
 
中尊寺境内の紅葉
 
宝物館付近の散策
 
 
 
峯薬師堂
 
弁財天堂
 
 
 
柿もたわわ
 
朝日を浴びる紅葉
 
 
   
散策を終えて
 
     
     
     
  みちのく浄土    
  金色堂・・毛越寺の浄土庭園・・無量光院跡
 
 
     
 
今回の世界遺産登録の決め手は「浄土思想をこの世にうつした都市計画」と言われるが、無知の旅人には浄土思想は死後の極楽往生を願う仏教思想の一つとしか思い浮かばなかった。 
平泉を訪れ、藤原3代の初代・清衡が浄土思想を活用し、「王権に奉仕する都の仏教」とは異なる、もっと「普遍的な仏教理念」を中心に据えて、国作りを進めていたのが理解できた。
   
12世紀後期の平泉
 
 
  「敵味方の区別なく。戦いで命を奪われた者の霊を慰める」ため中尊寺を建立した清衡は、死後の世界だけではなく、現世にも受け入れられる「宗教都市」の砦を作り、北の支配に役立てようとしたのであろう。
そこには、陸奥の国を縦断する奥大道を「仏の道」として整備し、仏教寺院の建立を通じて奥羽全土の掌握をはかるとともに、その中央に位置する中尊寺を中心に都市を建設し北の支配を推進するという清衡の壮大な構想がみてとれる。その考えは、二代基衡、三代秀衡に受け継がれ、宗教都市・平泉が完成したのであろう。 
 
     
  兵共の夢の跡   
 
義経堂より束稲山と北上川を望む (スイング撮影)
 
  平泉館(柳の御所跡)と中善寺の中程に高舘という丘陵がある。平泉に落ち延びてきた義経の館があったことから義経堂がある。その近くに「夏草や兵共の夢の跡」と刻んだ芭蕉の句碑があった。
ちなみに衣川の古戦場跡は上の写真の左奥の方である。
 
     
  中尊寺   
  中尊寺は初代清衡により、奥州の中心にあることを意識して建立された。その昔、中尊寺のある関山丘陵には「衣の関」があり政治、軍事上の境界をなしていた。奥州縦貫の官道「奥大道」も境内を通り北方へと通じていた。今の月見坂はかっての奥大道のルートに近いと推測されている。
当初の都市機能の中心は衣川地区にあり、中尊寺も最初北を正面とする寺院として創建された。清衡の時代の平泉はまだ市街地は形成されておらず、平泉館(柳の御所跡)と中尊寺のみの景観を呈していたらしい。 
 
 
 
金色堂・新覆堂
 
中尊寺本堂
 
 
   
 

鐘楼
 
能舞台

杉の根が階段 ?
 
     
  毛越寺 (もうつうじ)  
   
大泉ヶ池
 
 
二代基衡の勢力は父清衡を遙かにこえた。基衡による毛越寺建立で、都市平泉の発展は新しい時代を迎えた。毛越寺南辺を通る巾30メートル総延長1キロの 東西大路が整備され北の都の中心として賑わったようだ。
 
  大路を軸に設定された方形区画に貴族や官僚の邸宅が置かれ、平泉メインストーリーの誕生である。   
     
 
 
獅子踊りの奉納
 
池中立石 
 
 
     
  無量光院跡   
     
  三代 秀衡はみずからの鎮守府将軍任命を最大限に利用し、平泉のさらなる発展に努めた。
平泉館(柳の御所跡)の大改造と「新御堂」無量光院の建立などである。無量光院は宇治平等院を忠実に模した「新たな御堂」であり、北の国の「極楽浄土」であった。
盂蘭盆会の日と翌日の清衡の命日には、本堂正面に立つと日没の夕日が本堂背後に聳える金鶏山山頂に落ちるように設計されていた。中尊寺から平泉の駅に向かう途中にある無量光院跡は上の写真のように今は何もない空き地であった。写真奥の方で建物跡の発掘調査が進んでいる。敷地の駅側入り口に説明用の掲示板があり、建物のCG復元図が描かれていたので、写真に撮り御堂を切り抜いて上の写真にはめ込んでみた。それが下の合成写真である。
 
     
     
     
  厳美渓   
   平泉の近くにある厳美渓は伊達政宗が松島とともに「わが領地の二大景勝」と自慢した絶景の渓谷である。奇岩、甌穴、滝、深淵などが複雑に展開した景観はすばらしい。、名物の「かっこう団子」は渓谷を見晴らせる東屋で籠に代金をいれ注文すると、渓谷を超えた籠が「かっこう団子」を入れて対岸から戻ってくる。  
 
   
 
 
 
 
 
名物のかっこう団子を運ぶ
谷越えの籠
 
 
 
     
   甌穴とは河床や河岸が硬い岩盤からできている場合に生ずる円形のくぼみ。かめ穴ともいう。岩盤の表面に凹凸があると、そのくぼみに落ち込んだ礫(れき)が渦流によって回転し、岩盤を削って円筒形の穴ができるのだ。  
     
     
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