辺境のアルバム−5 | ||
峠のサイリム湖から国境の街イーニンへ |
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騎馬民族の誕生 | ||||||
人間が馬を家畜化した証拠がユーラシア草原の西端にある新石器時代の遺跡で確認されている。そこでは鹿の角で作られたハミの断片も発見された。およそ紀元前3500年の世界である。それ以前にも一部の遊牧民族は馬に乗る技術を持っていたであろうが、実用の域に至って無かったに違いない。 馬は前歯と奥歯の間に歯の生えない部分があり、遊牧民はそこにハミと呼ばれる棒を通し手綱に繋げた。その道具を用いて騎手は口への刺激で馬に指示をだし、複雑な運動を制御できるようになった。ハミの発明がユーラシア草原に騎馬民族を誕生させたのである。 紀元前3000年から1200年の間に青銅製のハミが使われ始めたが、鐙の発明はかなり後になる。紀元前300年頃、カザフスタンの南の草原の国パルティアの弓騎兵が鐙を使ったという記録がある。その前後に鐙利用がユーラシア草原の東から西に伝わって行ったようだ。西の世界ではハミの発見で戦車が発達し。西の草原地帯では鐙の発明が重なって、強力な騎馬軍団を生み出したのである。 |
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翌日馬で登った山の上から見下ろした湖 | ||||||
上の写真で、湖の辺を通り右に走る道路が国道312号線である。この高速道路は遠く洛陽から敦煌、ウルムチを通りここまで来た。この峠を下るとまもなく終点の国境の町コルゴスに至る。 写真の中央部分で道がT字型に分岐している所がサイリム湖のジャンクション。ここで高速道路を降り、写真の左の方に向かう道を取る。湖を見ながら進むと反対側に観光客の宿舎用のパオの列や遊牧民のパオが見えてきた。 |
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湖の辺に観光客用のパオが並んでいる。四角形の建物はコンテナーを利用した宿泊用の小屋 | 山の麓にも原住民のパオが点在する | ||
ここが観光地の中心で、食堂や売店などの小屋がある。 | 道路の反対側に我々が泊まった高級(?)ホテルがあった | ||
門から石畳の道が一番大きなパオまで続いている。 | ||||||||||
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一番大きなパオで、民族衣装を着たカザフ族の美女たちから歌の歓迎をうけた。 | ||||||||||
ホテルの近くだけ人の賑わいがあるが、週末のなのに、観光客はそれほど多くない。ここに泊まる観光客はほとんどパオに泊まる。我々の泊まるところは唯一のリゾートホテルとかで、バストイレ付きの客室を10室持つ木造建築であった。そこに泊まったのだが、お湯がでないのでバスは使えない。電気も日が暮れてから夜中の12時まで、その後は懐中電灯がないと手洗いにもいけないのには閉口した。その代わり、夜空の星は美しく、たくさん輝いている。この美しさは不便さを補って余りある。 寒いのには閉口した。2000mの高地で砂漠だ。真夏なのに夜は12月上旬の寒さで、もちろん部屋には暖房などない。ありったけのものを着込んで寝ることにした。 翌朝早く窓から外をみると、家畜を追って出かける土地の人は厚いオーバーを着込んでいる。幸い馬に乗って山に登る頃は、日本の10月中旬の気候と同じさわやかさであった。 |
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湖面から2〜300メートルほど標高の高い山の中腹まで2時間ほどかけて往復した。素晴らしいハイキングコースだが、二千メートルの高地である、馬に乗らなければとても登れない。空は青く、深い湖はそれより濃い青さである。この景色を満喫できただけでも、遠く旅してきた甲斐があった。 | ||||||||||
イリ河 | ||||||||||
イリ河は天山山脈から西にながれてカザフスタンのバルハシ湖にそそぐ前長1300Kmの川。流域の大部分は肥沃(ひよく)な谷で、牧草地では家畜が飼育されている。その中流にこの地方の政治文化の中心の都市イーニンがある。この地方が中国の歴史書に現れるのは紀元前2世紀である。紀元前139年ころ、匈奴を東西から挟撃することを月氏によびかけるため、唐の武帝の命で張騫(ちようけん)が長安から中央アジアの大月氏国へ出発した。10年の年月を経て、大月氏国へ到達した。長安にもどったのは前126年であった。 張騫の大旅行がシルクロードが開拓されるきっかけになったといわれる。 |
イリ大橋ではロバ車と乗用車が 併走していた |
イーニン郊外の街道脇で 市場が開かれていた |
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市場に商品を運んでくる車もいろいろ | スイカを運んできたロバも一休み | ||
イリ将軍府の恵遠古城 | 古城の上から将軍府跡を望む |
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