辺境のアルバム6   
   砂漠に埋もれた遺跡と観光商売で荒廃する遺跡  
   
タクマラカン砂漠の南縁に位置するホータンは チベット高原に続くクンルン山脈の麓で、天山南路最大のオアシス都市である。ここは11世紀まで続いた仏教王国ウテン国(ホータン王国)の首都で、法顕や玄奘などの中国僧も訪れている。   
 
   昔から玉の産地としても有名で、シルクロードより先に玉街道が存在したと言われている。
 ホータンには、観光地として有名なホータン王国時代の夏の宮殿跡のマリクワト古城とまだ土に埋めたままひっそりと保存されている冬の宮殿跡のヨートカン遺跡がある。最初に我々が訪ねたのはそれらとは別で、遠く離れた砂漠に残されている白い城壁を意味する
阿克斯皮力(アクセペル)古城の遺跡である。
 
     
   阿克斯皮力(アクセペル)古城 (砂漠に取り残された遺跡)  
   
   
 
   駱駝に乗ってから3時間ほど経ち、遠くに人工物らしい影が見えたときは、
これでお尻の痛さから開放されるとほっとした。
 
   
   
 阿克斯皮古城と文字が刻まれた石柱(右端  石柱に立つ小生
   
 心配していた砂嵐もなく、  
  砂漠の駱駝乗りを楽しんだ。 
 駱駝も人も砂漠の途中で一休み
 
   朝早くホータンのホテルを出た車は、東に30キロほど離れた砂漠の端に位置する洛浦県吉雅郷にたどり着いた。そこから駱駝に乗って砂漠を12キロほど入ったところに目指す遺跡があった。訪れる人もほとんどいないのか古城の遺跡はひっそりと砂漠の中にたたずんでいた。砂漠に守られているのかもしれない。
 遺跡探検(?)になるのか、われわれ11名の物好きな旅行者に、市の文化担当官が同行している。ようやくたどり着いた砂漠の遺跡に立ったときは、四方にはてしなく広がる砂漠に圧倒されてしまった。昔この地方は豊かなオアシスで集落が栄えていたらしい。阿克斯皮力古城の建設の一番早い年限は大体紀元前2世紀のころだといわれている。城壁の周囲は7〜8キロメーターあるそうだ、その大部分は既に流砂に埋められるか風化して今残るの写真の土塁だけだが、周囲の土の中にもやたらと多くの素焼きのかけらが混入していた。それはこの城壁が作られる前の時代の名残りかもしれない。
 
     
  ヨートカン古城 (荒廃を避け、慎重な発掘を企画している遺跡)   
   
   
   
 
   発掘調査の許可が出るまで遺跡はこの下に眠っているとのこと  
   
   
 
   幼特干古城の近くで遊ぶ子供たち  
     
   ホータン王国の夏の宮殿ヨートカン古城はホータン郊外の田園風景の中に埋もれていた。美しいポプラの並木を進むと農作物を運ぶ農民のロバ車によくすれ違う。子供が一人で手綱を持って乗るロバ車に出会った、その近くで小道を曲がると、そこが古城の遺跡だという。角にあった看板の他遺跡の存在を示すものはなにも無い。土地のガイドの説明によると、遺跡は小さな丘の下に眠っているが、荒廃を避け当局は発掘を抑えているのだそうだ。観光客などめったに来ないのであろう、物売りもおらず、店も無い。近くで遊んでいた子供たちが物珍しげに寄ってきた。周辺の畠や小道の下にも古跡が眠るのだろうが、小道は生活道路の一部で荷物を担いだ老婆が歩き去っていった。 この地域の住民は目前の観光商売に走らず、生活の中で静かに遺跡を守っていた。  
     
   玉の産地ホータン  
   中国の春秋戦国時代の小説を読んでいると霊的な力を持つ玉のことがよく出てくる。そのときは貴重な宝石ぐらいに考え、深く詮索することをしなかった。日本の縄文時代の遺跡からでる勾玉が糸魚川でとれたヒスイだとの先入観から、中国の玉もヒスイの一種であろうと長い間思っていた。実は玉には軟玉と硬玉があり、軟玉は硬玉に比べ柔らかく加工もしやすい。中国には硬玉が産出しないので、古い時代の玉はすべて軟玉である。遥か昔から祭祀品又は王の権力の象徴として玉器が用いられてきた。中国で硬玉(ヒスイ)が愛用さっるのは18世紀になってからである。
 その玉であるが、白く透明感のある最上質のものは羊脂玉と呼ばれ、中国では硬玉よりも価値が高いとされた古代は西域の大月氏国から匈奴をへて入ってきたのだが、紀元前2世紀漢の武帝の命で。大月氏国に旅した張騫によって玉の原産地が突き止められた。実はそのとき黄河の源流がホータン川だと報告され、その源の山の中から大量に出た玉石は、急流を下って流れ出し、麓の比較的平らなところに長い時間をかけ堆積したので、ホータンの城外でも沢山採ることが出来たのであろう、張騫はそれを持って帰ってきた。
 ウテン国(ホータン王国)から歴代の中国王朝に毎年大量の玉が献上された、玉を運ぶ道は中国の絹をホータン経由でヨーロッパに運ぶのに利用され、シルクロードになったといわれる。張騫の大旅行前は匈奴慰撫の為与えていた絹の一部が大月氏国を経由してごく少量運ばれていた。草原のシルクロードの先駆けかな?
 
   
   
 ホータン川の川原は玉探しのため
一面に重機で掘り起こされている
 市内の専門店で最高の玉に触れる。
これで何千万円とか・
 
     
   マリクワト古城 (部落の利益が優先し、荒廃しそうな遺跡)  
   砂漠との境界近くの部落の端に遺跡の入り口があった。ここからは歩くかロバ車になる。、そこには観光客相手に土産物を売る屋台が並び、ロバ車がたむろしている。我々もロバ車を利用することにした。
ガイドがロバ車を並ばせ二人づつ乗せていく、部落の男たちは近くのホータン川の河原で玉探しに従事しているのか、ロバ車を扱ったり、土産の物などを売っているのは部落に残された女性と子供たちが主で、男たちの姿はすくない。
ロバ車に別の子供たちが乗り込んできてしつこく土産を買ってくれとせがむ。聞くとロバ車の手綱を持つ子の姉妹だという。家族総出で働いているのだそうだ。
遺跡につくとこの子供たちは土塁を駆け上ったり、滑り降りたりして遊んでいる。この遺跡を部落の人たちは自分たちの所有物と思っているようだが、この遺跡を守る管理者はいるのだろうか?心配になった。
 
     
   ホータン市から25キロほど南にマリクワト古城はあった。
古城跡の土塁は子供たちの遊び場になって崩れが激しい
遠くに見える山並みは玉の鉱脈があるというクンルン山脈、玉石はホータン川の急流を運ばれ、古城のあたり土地が平らになった川原に堆積する。左手の方にそのホータン川が流れている
 
   
   
 1キロ足らずのゴビの中の道をロバ車に乗る。  子供の遊び場になって崩れが激しい
 
     
   トルファンにある古城
(トルファン近辺ははシルクロードツアーの定番コースなので今回も詳報は割愛する)
 
   ホータンへの交通は便利でない。ウルムチから定期便が飛ぶが便数が極度にすくない。そのせいか観光客も少なく俗化が進んでいないように思えた。
 帰途に立ち寄ったトルファン付近の古城や遺跡は、シルクロードツアーの定番観光名所としてあまりにも有名なので、今回も割愛することにして、「辺境のアルバム」のウィグル編はこれで終了する。
 次はこのあと訪れたイスラエルの写真を整理する予定である。
ホータンの古城はトルファンの高昌故城や交河故城などに比べるとあまりにも小規模である。違いを示すため、最後にそれぞれの写真を2枚づつ載せる。
 
   高昌故城  
   
   
入り口から中心部までは幌つきのロバ車に乗る  玄斐三蔵が説法をした講堂 
 
   交河故城  
   
   
 


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