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我が家に飾られている3枚の絵画 |
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我が家には松尾画伯がイスラエルで描いた3枚の絵が飾ってあります。
玄関にある「シナイ山」」は、イスラエル旅行の思い出にと最近贈られてきたものです。この他に、息子たちの食堂にも松尾画伯が描いたイスラエルの絵が二つ飾ってあります。
「マサダの砦」と「山上の垂訓教会」でそのどちらかは息子夫婦の結婚祝いに頂いたものです。息子の義父と松尾画伯は若い頃イスラエルで知り合って以来の親友で、今回も含め毎回松尾さんの「聖書の旅」に参加されているそうです。そのご縁で私も松尾画伯をリーダーとする「聖書の旅」に参加しました。
その報告は辺境の旅U「聖書知らずの聖書の旅」としてホームページ「無知の旅人」に加えてあります。今回は視点を変え、家にある3枚の絵画が描かれた場所を軸に「辺境のアルバム−7」として追加したものです。
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シナイ山 |
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マサダの砦 |
山上の垂訓教会 |
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モーゼの足跡を辿って |
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カイロを出てシナイ半島をスエズ湾に沿って南下した我々は、途中から半島中央部のシンの荒野を横切り、シナイ山を目指しました。
途中休憩したオアシスで松尾さんが旧約聖書の一節を朗読してくれました。旧約聖書に書かれている「水の奇跡」の場所レフェディムのあたりかもしれません。イスラエル人が神から与えられた水を奪おうと、砂漠を支配していたアマレク人が攻め込んできました。その戦闘がここで行われ、モーゼの後継者になった勇者ヨシュアの指揮でイスラエル人が勝利しました。
この戦いでは、モーゼが杖を高く挙げるとユダヤ人が優勢になり、下げると劣勢になったそうです。この後モーゼの一行はシナイ山で十戒を授かり、目的の「約束の地カナン」(旧約聖書に出てくる地名でヨルダン川西域を指す)を目指しました。われわれもその跡を辿りました。
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左手前の山がアマレク人と戦った際、モーゼが神の杖を高く挙げた山
写真の人物は松尾画伯と私 |
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シナイ山 |
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最初の絵画の場所はシナイ山です。無知な旅人の私は駱駝での登山が魅力で参加したのですが、モーゼがここシナイ山で神と契約し、授かった十戒は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の中心的な戒律になっています。従ってここにに集う多くは敬虔な巡礼者でした。 |
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シナイ山の麓は石作りの山小屋風の小屋が点在する。ホテル セントカテリーナビレッジで、
我々はここに泊まり、翌朝午前2時に起きて月明かりの中、ラクダでモーゼの山に登った。
映画「十戒」もこの岩山が舞台だが、モーゼの山はこの裏側。 |
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モーゼが十戒を授かったシナイ山
山頂で仰ぐ朝日、 |
帰りはほとんどの人が 歩いて山を下る |
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モーゼの十戒
- 私以外の何者も神としてはならない。(出エ 20/3)
- 偶像を作ってはならない。・・・それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。(出エ 20/4-5)
- あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。(出エ 20/7)
- 安息日を覚えて、これを聖とせよ。六日のあいだ働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主の安息であるから、なんのわざをもしてはならない。・・・主は六日のうちに、天と地と海と、その中のすべてのものを造って、七日目に休まれたからである。(出エ 20/8-11)
- 父母を敬いなさい。(出エ 20/12)
- 殺してはならない。(出エ 20/13)
- 姦淫してはならない。(出エ 20/14)
- 盗んではならない。(出エ 20/15)
- 隣人のことを偽証してはならない。
- 隣人の家をむさぼってはならない。隣人の妻、しもべ、はしため、牛、ろば、またすべて隣人のものをむさぼってはならない。(出エ 20/17
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イスラエルに入国 |
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一時期イスラエルに占領されていたシナイ半島も今はエジプトに返還されています。その為、多くの巡礼者や観光客はカイロからシナイ山を訪れます。しかし、入出国の検査が厳しく、パレスチナ過激派の存在などで不安を感じるのか、イスラエルにまで足を延ばすグループは少ないようです。
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国境のゲート |
紅海に面したリゾート地エイラト |
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紅海でセーリングを楽しむ |
対岸にヨルダンの大きな国旗 |
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エイラトからゲネブ砂漠をへて死海へ |
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エイラトからゲネブ砂漠に入り、途中億年前に地球の地殻変動と雨水の浸食作用によってできた巨大な陥没地ラモン渓谷を経て、イスラエル建国の父ベングリオン記念館のあるキブツに立ち寄ったり、ヴェトミンの村を訪ね食事をしたりした後、海面下400mの死海に向かった。 |
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ラモン渓谷
高さ500mの崖が40km近く続く |
ヴェトミンの部落で食事 |
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ナツメヤシを味合う息子夫婦の父親たち |
死海に浮かぶ |
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マサダの砦 |
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次の絵画に描かれている「マサダの砦」は死海から西へ4キロの荒野に聳え立つ険しい岩山で、マサダの悲劇の舞台です。その悲劇こそ、第二次世界大戦後にイスラエルが建国されるまでの2000年近くにわたるユダヤ民族の流浪の始まりでした。 |
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マサダ砦の全容 |
頂上の宮殿遺跡 |
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ローマ軍が攻め込んだ谷間を見下ろす場所で、ユダヤ戦記のマサダの悲劇が書かれた章をリーダーの松尾画伯に朗読して頂く |
城壁から死海を見下ろす。
右端の建物はケーブルの駅、
中央少し下のの四角はローマ軍の陣地跡 |
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イスラエル軍の入隊式はマサダの砦で行われる
入隊式ではダビデの星が描かれた国旗がはためく山頂で片手に自動小銃、もう片方の手に聖書を握りしめ「マサダの悲劇を繰り返すな」と誓うのです。
マサダの悲劇
歴史家ヨセフスの「ユダヤ戦記」によれば、紀元前70年のエルサレム陥落を受け、信心深いユダヤ教徒たちがここを占拠し、ローマ軍の包囲を3年近く持ちこたえました。ローマ軍が西側の標高差の少ない谷間を土砂で埋め、木造の塔を築いて門壁を破るに至り、マサダの住人たちは「奴隷になって死ぬより、自由のまま名誉ある死を選ぼうではないか」と悲痛な決意をしました。
自殺を禁じられている信徒たちはまず、10名をくじで決めその10人を次に選ばれた者が殺し、更に次の10人が・・という方法で、最後に残った者は自らに火をつけて死んでいったのでした。(967人のうち、7人の女子供だけがこの時、隠れていて、ローマ軍がマサダに入ってきた時に捕まり、彼らが、この時のことを話して、後にヨセフスが書き残したということです。) |
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死海からヨルダン川に沿って北上、聖書の故郷ガリラヤ湖へ |
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死海南端のマサダの砦を出たあと北上し、死海文書が発見された死海北端近くのクムランを訪ねました。クムランと死海文書は前述の「聖書知らずの聖書の旅」に記載したのでここでは割愛します。
クムランの近くに聖書史上有名な町エリコがあります。エリコは、ヨルダン川西域でパレスチナの自治に移行された最初の都市です。我々はエリコの観光を予定していましたが、治安に問題が起こっているとの連絡が入り、急遽エリコをスキップしてガリラヤ湖に直行しました。
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ヨルダン川西域
死海とそこに流れ込むヨルダン川がイスラエルとヨルダンの国境になっています。東岸がヨルダン領ですが、西側はちょっと複雑です。死海の南半分の西側はは当初からのイスラエル領でマサダはその中に含まれています。死海の北半分と死海に近いヨルダン川の西側が「ヨルダン川西域のパレスチナ自治区」でクムランもその中に含まれます。
ヨルダン川西域は日本の外務省から、なるべく旅行をさけるよう警告が出ている地域です。1967年6月の第3次中東戦争でイスラエルは6日間で大きな勝利をおさめ、イスラエルはエジプトからはガザ地区とシナイ半島を、ヨルダンからは東エルサレムとヨルダン川西岸地区を、シリアからはゴラン高原を獲得しました。シナイ半島は1978年エジプトに返還され、ゴラン高原は軍隊は引き上げましたが、国境問題が解決していません。日本の自衛隊を含む国連軍が駐在していました。 |
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山上の垂訓教会 |
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3番目の絵はガリラヤ湖が一望できる標高125mの山上にある教会です。
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垂訓教会 |
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垂訓教会の内部 |
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山上の垂訓
心の貧しい人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる。
柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ。
義に飢え乾く人々は幸いである。その人たちは満たされる。
哀れみ深い人々は幸いである。その人たちは憐れみを受ける。
心の清い人々は幸いである。その人たちは神を見る。
平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。
義のために迫害される人々は幸いである。天の国はその人たちのものである。
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ガリラヤ湖畔は聖書の故郷 |
山上から見下ろしたガリラヤ湖畔 |
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パンの奇跡の教会 |
教会の床のモザイク |
イエス宣教の根拠地
カペナウム |
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絶好のタイミングだった! |
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最近、イスラエルとパレスチナの紛争が、新聞に頻繁に取り上げられるので、辺境のアルバムの最後は、イスラエルの旅行の写真からとりあげました。
イスラエル在住の経験が長く、日本に戻ってからも足繁く訪ね、イスラエルの絵を描き続けている松尾洋明画伯はパレスチナ過激派の危険が少ない時期を選んで、友人たちや聖書研究の仲間を誘って、幾たびかイスラエル旅行を主催してきました。今回の「聖書の旅」もパレスチナの選挙で過激派が勝利した2ヶ月後の3月11日に日本を出てイスラエル選挙の直前の24日に帰国したのですから、イスラエルとパレスチナの選挙の間隙の小康状態を利用した絶好のタイミングの旅でした。
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イスラエルーパレスチナ紛争
今から3年前の1月に行われたパレスチナの立法評議会選挙で、過激派のハマスが過半数の議席を占めたことで、イスラエルとパレスチナ過激派との抗争が激化し、今年1月の「ガザ地区へのイスラエル侵攻」にまで発展したことは皆さんよくご存知の通りです。我々が訪れた時は、過激派が選挙で勝利した直後で、過激な活動を控えていました。その3ヶ月後にイスラエルの選挙があったので様子をみていたのでしょう。 |
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