神仏習合の原風景・・国東半島
古代史に想いを馳せる仏の里 
     
 
  仰々しいタイトルが付いているが、実は私のご主人様無知の旅人は出かけるまで、国東半島に関しては宇佐神宮以外は何も知らなかったようだ。
相変わらず無知なのである!
「神仏習合の原風景」は5年前、大分県が文化庁に提出した「世界遺産登録への提案書」のタイトルをそのまま借用したのだ。無知の旅人はその意味の深さが理解できず、気が引けたのかサブタイトルでごまかしたようだ!
     心配のたえないカメちゃんより。
     
 
   1  宇佐神宮と六郷満山
     里人に守られた六郷の寺社
   3  近代化に貢献した偉人達の故郷 
     
        旅の前半は「カメちゃん日記続編2」をご覧ください      
         
 
六郷満山
 国東半島は宇佐神宮の荘園でした。中央の両子山の頂上から谷が放射状に海岸に伸び、山岳信仰の修行に相応しい峯や奇岩ができています。
山岳信仰と結びついた宇佐神宮は莊園内の山々に権現を祀った。この権現に神宮寺ができると、八幡信仰に天台宗の密教思想や浄土思想が結びつくことで、神と仏が渾然一体となった霊地と独特な山岳仏教文化ができあがったのだろう。
半島を6つの郷に分け、各地に28の寺院を開き(盛時65)、更に寺院を本山、中山、末山と分類し、役割を決めるなど見事な組織を創り出した。これが六郷満山という。僧門によるの荘園の統治と、山伏や修行僧による軍事力の維持を計った組織ではと、無知の旅人は勘ぐるのだった。
     
     峯入り
  役行者の跡を慕って大峰山(奈良県)に登る修験道の厳しい山岳修業からきた言葉で、
  「国東峯入り」は六郷満山の開祖・仁聞菩薩の聖地をまわる天台宗の山岳修行。
     
         
   宇佐神宮      
 
     
 南中楼門(勅使門)・・二の御殿拝所
左が一の御殿拝所、右が三の御殿拝所
この奥に国宝の3つの御殿がある
  境内の東の端にあるご神木(前方正面)  
     
 南大門から百段階段を通して
境内を見上げる。階段右下に
ゴルフ場などで見かけるモノレールがある
  
  境内から見る西大門(国宝)
普通は参道からここを通り境内に入るのだが
我々はモノレールで境内に登り参道を下った
   
宇佐神宮参道    神橋
     
   この地方には土着の比売(ひめ)の神や八幡(やはた)の神などの信仰があって、それらが卑弥呼に関連するのか、朝鮮半島からの渡来かなどなど、いろいろと想像ができる。それはさておき、この地方が渡来文化をいち早く導入した、技術や文化の先進地域であったことは容易に想像できる。また応神天皇が3歳童子になって「我は八幡麻呂、護国霊験の大菩薩」託宣したことから一の宮に八幡大神を祀ったとのことだ。ここで注目するのは神が仏教の菩薩の位を与えられ、仏が上位で神仏が習合(本地垂迹)がなされていたことだろう。それが国東半島の六郷満山に発展、その信仰が里人に守られてきたことを考えふと大分県の世界遺産登録申請に「神仏習合の原風景」と名付けたのもうなずける。      
         
  「六郷満山峯入り」の要・天念寺      
   8世紀初め(718年)に仁聞菩薩により開基されたといわれるこの寺は、背後に奇岩、秀峯が連なり、「峯入り」にとって重要な寺になっている。また六郷満山の典型的な特徴を多く持つ寺でもある。      
         
  天念寺耶馬       
 
     
峯入り最大の難所「無明橋」    峯峯にある祠 
     
 
 
 天念寺講堂・・修正鬼会の舞台   天念寺本堂 
     
本堂と講堂の間に身濯神社(旧六所権現)     役行者像・・小さな磨崖仏
     
講堂のすぐ前にある川中不動 
長岩屋川の水害除けに江戸時代に刻まれた
 
   天念寺修正鬼会に使う大松明
  (講堂内)

今でも正月7日に講堂で赤鬼と青鬼が松明を持って暴れ、五穀豊穣などを祈願する
     
   
2
里人に守られた六郷の寺社
     
   奈良時代に始まり平安時代に栄えた六郷満山文化も、鎌倉時代末期から桃山時代になると衰退し、土着性の色がこくなっていったそうだ。安土桃山時代にはキリシタン大名大友宗麟の時代になり、多くの仏教寺院が破壊された。富貴寺大堂は難を免れ村人に守られ平安期の阿弥陀堂の姿を今に伝えている。徳川時代は政治的にも寺が神社より優位に立っていた。家康も大権現で仏の化身の地位である。本地垂迹が活きている。六郷満山最大の危難は明治新政府による神仏分離令とそれにともない全国的に広がった廃仏毀釈の活動であった。国東は庶民の手で守りぬかれたとはいえ、多くの寺院が廃寺となったり、仏像が傷つけられたりして、その痛ましさを今にのこしていた。さらに修験道の禁止令によりさらなる衰退を重ねたが、里人の信仰心で維持修復が進められてきたと説明を受けた。。     
  富貴寺・・里人の宝は国宝だった       
 
       
お堂の内部は写真が撮れないので
お寺のパンフレットからのコピーです
  富貴寺大堂(国宝)
九州最古の和様建築物
  富貴寺大堂の内部
内陣後壁には浄土変相図が描かれている
 
     
 
     
山門左の仁王 (吽形)   山門右の仁王 (阿形)
     
富貴寺本堂    本堂横に仁王像 
     
         
  本堂脇の十大王像・・中心に閻魔大王、一番左は地蔵菩薩       
 
     
大堂脇の国東塔・・今回ガイドをお願いした
摩尼尊彦さんは興導寺のご住職 
  富貴寺の境内にも大権現の神社が 
     
富貴寺に隣接した「蕗薹」(ふきのとう)
お蕎麦が美味しい 
  「蕗薹」の宿坊風の離れ・・ここに泊まる
この辺りの地名が蕗で富貴寺もそこから来ているらしい 
 
     
         
  真木大堂・・かって六郷満山65ヶ寺の中枢であった幻の寺院・・傳乗寺       
 
     
 真木大堂の説明をする興導寺住職、ガイドの時は
お坊さんらしさを消すため、しゃれた格好になるそうです
  今は旧本堂を残すのみ 
     
旧本堂正面の扉に菊花の紋章 
蒙古来襲の折り異国降伏の祈祷の功績で下賜 
   真木大堂境内の庚申塔 
 
     
 
磨崖仏     
 真木大堂の近く、田原山の岸壁に日本最大級のスケールを誇る不動明王と大日如来が刻まれた熊野磨崖仏がある。、国東半島観光の定番コースに入るのだが、山道をかなり登ると云うので諦め、次の訪問地として近くの本宮磨崖仏に立ち寄った。
室町時代に完成し、以来地元民が信仰し守ってきたが、年々風化が進み憂慮していた。
昔の姿を後世にに残したいと、昨年待望の覆屋が完成させた。
   
    本宮磨崖仏
     
  寺社を守った六郷の山村風景      
  大分県中津市にある渓谷・耶馬溪は新日本三景に選ばれているが、谷の多い国東半島にも前出の天念寺耶馬など耶馬がつく谷が幾つかある。中でも無動寺の前に広がる夷耶馬(えびすやば)は一番の絶景だという。訪れたのが午後だったので逆光でよい写真が撮れなかった。
麓の谷あいに美しい山里が続いていた。この山里の人々がそれぞれの寺社を守ってきたと説明を受けた。 
     
         
  夷耶馬の左上部に無明橋がかすかに見える      
   夷耶馬の展望台から下方を眺めると美しい里村が続いている      
 
     
畠に「夢」の文字    穏やかな山里が続く 
     
   無動寺      
   寺のパンフレットによると「峯入り寒行」というのがあり、まだ日の登らぬうちに入山し峯峯を渡り歩き向こう谷にある天念寺参拝を含む行を毎年1月13日から2月2日までの21日間連続して行う修行で、かっては、多くの僧が修行に励んだそうです。      
         
  ご本尊の不動明王は怒りを激しく現さず穏やかな慈悲相が特徴
左が弥勒仏座像中央不動明王右が大日如来座像
     
 
     
なまめかしい天井画    薬師如来座像と十二神将 
 本堂で参拝し上を見上げるとモダンな天井画があり驚きました。
先代のご住職が描かれたそうですが,厳しい寒の峯入り行との対比が意外でした
     
 
3 近代化に貢献した偉人たちの故郷
     
   古墳時代からの脱却の中心になった北九州は、当時大陸の文化をいち早く取り入れた、日本の先駆者達の国であり、豊前、豊後の「豊の国」はその中心であった。安土桃山時代には一部の里人はキリスト教も受け入れた。
   
         
   ペトロカスイ岐部      
   安土桃山時代に国東に生まれたペトロカスイ岐部は大友宗麟の影響もあり熱心なキリスト教徒になった。幕府の禁教令で、国内で学べないのでローマに向かい司祭ととなった。
厳しい弾圧に苦しむ祖国の信者を救うため、捕らわれることを覚悟で日本に戻る
     
 
     
ペトロカスイ岐部像    幕府の役人に捕らわれた ペトロカスイ岐部像
国東半島は 大友宗麟の支配地に時代もあったのでキリスト教が多かったのは当然で、その影響で隠れキリシタンの遺跡も多い。残念ながら我々は訪れなかったが、十字架を手にした庚申塔や市の有形文化財に指定されているキリシタンの墓などがある。    
    自性寺(中津市)の織部灯籠(右)別名キリシタン灯籠 
隠れキリシタン礼拝用の灯籠と云われている
竿の上部に十字架を表現した膨らみを持たせ
竿の部分にガウンを纏った宣教師風の人物
     
         
  豊後聖人 三浦梅園       
   近代化の思想家で慶應義塾の創始者・福沢諭吉も「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」(「学問のすすめ」の書き出し)で従来の身分制度を支える儒教的思想を排し実証的な学問を説いたのは多くの人が知っているが、彼らに大きな影響を与えた江戸中期の豊後聖人三浦梅園を知る人は少ないようだ。実は私も国東を訪れるまで知らなかった。・・恥ずかしい!!      
   天文・地理・医学・経済などあらゆる学問を通じて自然と社会の真相を究明しようとした豊後生まれで他所へは行かず豊後に生きた哲学者。古墳時代後期の北九州のDNAが梅園にに受け継がれそのDNAが北九州が生んだめ近代化の偉人達・福沢諭吉や大隈重信などに受け継がれているのではと思った次第です。      
 
     
三浦梅園の生家    三浦梅園資料館 
梅園資料館で梅園の足跡を辿ると、哲学者というよりは科学者と呼ぶのが相応しい。観察をベースに推論を展開する科学的なアプローチだ。
江戸の中期に、この様な業績を残したのは凄いことだ! 長崎に近い事も効率のよい推論を進める助けになったであろう。また近隣諸国から来た生徒達が梅園の「合理的な考察法」を身につけ、やがてくる近代化に役立てたとも思うのは考えすぎだろうか?
   
     福沢諭吉の生家の庭(中津市) 
カメちゃん日記続編2参照
 
     
         
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