イスラエルの旅−続きの2  
     
   Y ゴラン高原の花たち  
   
   
 
   ゴラン高原はヘルモン山の南に広がる海抜1000mの玄武岩でできた起伏に富む台地。で第3次中東戦争以来イスラエルに占領されている。
ヘルモン山の麓にはヨルダン川の源となるバニアスの泉がある。イスラエルの大切ゴラン高原に限らず、この季節イスラエルはいろいろな花で彩られていた。
 
   
   
 
   ゴラン高原は一面の花畠でした。その片隅で見つけたシクラメンの原  
   
     
 
     
     
   ゴラン高原の休戦ライン近くで、シリアの街を眺める。
手前の白い建物は国連の平和維持軍の宿舎、
日本の自衛隊も参加している。
 
     
   Z にわか巡礼者の旅  
   ガリレア湖周辺とエルサレムの聖地訪問記は多くの方が巡礼記を報告されているのでここでは割愛し、エルサレムの写真を少し載せます。  
   
死海文書
 
   キリスト教とイスラム教は共に一神教のユダヤ教から分かれたもので、これら三つの宗教は、エルサレムを聖地として共有している。そのため過去2000年いろいろなドラマを演じてきた。
 その歴史もさることながら、ユダヤ人の祖先に「唯一神の存在を感じさせた自然の風景」に接して、それを少しでも実感したかった。三つの宗教を分離させた人間社会の必然とそれぞれの成長の過程にも興味があった。
 従って、聖書の故郷に立った感動より、モーゼがさまよった荒野やキリストが生きていた時代風景が類推できる死海写本(紀元前の旧約聖書の写本及び聖書の注解と、クムラン宗団の共同体の典礼、教理、戒律などをしるした文書がクムラン周辺の洞窟から次々と発見された)をイスラエル博物館で直接見たり、それが出土したクムランの洞窟を訪れた時の感動の方が大きかった。出かける前から、ローマ時代(初代教会時代)のキリスト教がユダヤ人を異常なほどの悪者に仕立てあげ、それが中世、近代を通して成長しアウシュビッツの遠因になったのではと思っていたので、キリスト以前の文書が二千年の眠りから起こされ発見された「死海文書」には歴史のロマンを感じていた。
 同行した敬虔なクリスチャンから見ると、けしからぬにわか仕立ての巡礼者であった。それでも荒涼とした岩山とそこに刻まれた歴史の足跡が、にわか巡礼者の心の空隙を満たしてくれたから不思議である。


 
   
   
 イスラエル博物館の死海文書 死海文書が発見された
クムランの第4洞窟の前にて 
 
   60年ほど前にベドウィンの少年が投げ込んだ石で、偶然発見され二千年の眠りから醒めた死海写本はイスラエル博物館に大切に保管されていた。  
     
    マサダの砦     
   
     
 マサダの全容 頂上の宮殿遺跡   城壁から死海を見下ろす
 
   マサダは2001年に世界遺産になった要塞宮殿遺跡で、死海の西側400mの崖の上にあるケーブルカーで登れる。ローマ軍の攻撃に2年持ち堪えたが、西暦73年陥落女子供を含めほぼ全員自殺した。ローマ軍の陣地跡が見える砦の上で、リーダーの松尾画伯が「ユダヤ戦記」の最後の玉砕の模様を記した箇所を朗読して下さった。  
     
   エルサレム  
     
   エルサレムの旧市街を望む  
   
   
 ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」西暦70年台に破壊された第二神殿の遺構と考えられている。  旧市街にあるイスラム教のモスク
 
     
   
   
 マリア訪問の教会  賛歌を合唱するナイジェリアの巡礼団
 
   「マリア訪問の教会」はイエスを身ごもったばかりのマリアが叔母のエリザベツに挨拶に訪ねてきた所に立つ教会で、その際お腹の子が動いたのでそれを喜んで歌ったマリア賛歌が各国語に訳され壁に貼られている。もちろん日本語もある。  
   エルサレムではあちこちでナイジェリアの巡礼団に遇った。2年に15000人の割りで送り込まれてくるとのこと。ナイジェリアはアフリカ西海岸に位置する国。人口は1億3千万人でアフリカ最大である。50%がイスラム教徒で40%がキリスト教徒。 公用語は英語  
   以上です  
     
     ←前の次ページ  
   「イスラエルの旅」トップページに戻る→  
   「辺境の旅」トップページに戻る