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御府内88札所巡礼を結願しました |
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冬眠から目覚めて20日ばかりになりました。4月初旬まで寒い日が多かったが、これからは春本番ですね!私も少しづつ身体を動かし始めます。この期間の大きな事件(?)はご主人様の無知の旅人が、御府内88カ所の札所を巡りきり,結願に辿り着いたことだ。
信心深いとは言えないのに・・どうしたのだろう?
実は案内してくださった巡礼の先達がいたのだ。その方から御府内(江戸時代の江戸市中)の寺社を歩いて巡ると、失われた東京の再発見ができると説明を受けた時。無知の旅人は「これこそ自分にとっての辺境」だとすっかり乗り気になったのだ。動機が単純なのだ。巡礼には何かを願う発願があって、結願なのだが相変わらず無知なのである。
動機はともかく、6年かけて、結願に辿り着いた旅人に、ご苦労様と慰労したいカメちゃんです。 |
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札所巡りの報告前に、私の近況報告です。 |
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あたたかくなったので
庭の散策を始めました。
ご主人様が芝生の草むしりを
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している時は、そばに近づいて
挨拶します |
フクロウさんにご挨拶しようかな |
大きな目でにらまれて
竦んでしまったカメちゃんです。 |
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庭の片隅に追いやられた
こちらの方が親しめる |
今日の食事はハムでした
ミミズはまだ出てこない |
最後は池の中で一休み
小さくて池というよりバスタブだ |
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御府内88札所巡り ・・その1 |
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10年ほど前朝日カルチャーセンターの「秩父三十四観音めぐり」を受講した。仏像にいささか興味があったことと、毎月、秩父の自然を散策出来る内容に惹かれたのであった。巡礼衣装をまとった先達がおり、初心者にも丁寧な指導をしてくれた。しかし、秩父は遠い、半分程は欠席し、巡礼者としては失格であった。ご一緒した知人二人は全行程に参加し、満願成就を達成された。このことがあって、今回は八十八のお寺を全部巡ることを挑戦目標にした 。前回満願成就を達成された方が先達になってくださった。「牛に引かれて善光寺参り」でなく「美女(?)に引かれて札所巡りと江戸巡り」になった。 |
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一番札所と八十八番札所そして一番遠い札所 |
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40台のころ司馬遼太郎の小説「空海」を読み感銘をう受けた。それ以来私の中の空海像は教祖的なものではなく、未知への挑戦者像であった。森鴎外の言葉を流用すれば「帽子を取って深く頭を下げるが、後に従って行くのではない」のである。しかし、巡る寺寺でこの巨大な偉人に想いを馳せたのだから、少しは後を辿ったかもしれない。
今回の報告は最初と最後の寺、そして一番遠かった寺の3寺に絞り、、次回からは主題を決め、焦点を絞った景色、巡礼で出会った風景を順次紹介する。 |
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一番札所の高野山別院は大名屋敷のような重々しい門構えで、寺院の山門とは趣が違う。何故だろう無知の旅人は興味を持った。調べて見ると、高野山金剛峯寺の別院で学侶方の在番所として設立「高野山江戸在番所高野寺」として、幕府と宗務全般の交渉や幕府通達を全国の真言寺院に通達する触頭の責を担ったことが分かった。それと同時に、最後の第八十八番札所・文殊院も当時「白金高野寺」ともよばれ、行人方の触頭だったのを知った。御府内88札所巡りの発願と結願を、真言宗の重要な江戸の2寺が担っているのだ。 |
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一番札所 高野山東京別院 |
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巡礼初日、第一番札所をお参りし、引き続き三田界隈の7つのお寺を参拝した。私の先達は御朱印をありがたく受け取り、集印帳に納めていたが、こちらは寺院の写真をカメラに納めることで済ますことにし、参考のため、最初と最後の御朱印もカメラに納めさせて頂いた。
その写真から、平成20年6月12日であったことが読み取れる。 |
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高野山東京別院入り口 |
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本堂 |
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高野山の学侶と行人の争い
高野山の膨大な寺領を統治するため、僧侶達は次第に宗務と業務を分担するようになり、前者を母体とした「学侶」と後者の「行人」の2大集団が形成された。それに諸国に赴き勧進を行う「聖」の3階派が形成されていった。
始めて高野山を訪れたときその穏やかな宗教都市の雰囲気に心を打たれた。それからは想像できないことだが、両者の争いは長く激しく続き、江戸時代には、幕府を巻き込んだ争いごとにまで発展することもあったようだ。「聖」に関しては泉教花の小説「高野聖」で知っていたが、学侶、行人に関しては無知であった。ちょっと恥ずかしい!
元禄時代と享保時代に幕府による行人弾圧があり長い間の闘争に幕が降ろされた。、御府内八十八ヶ所ができたのは、それから半世紀ほど後の宝暦時代であるから、文殊院に対する東京別院の優位は確定していたと思われる。 |
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八十八番札所 文殊院 |
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6年近く掛けようやく辿り着いた結願寺の文殊院では、 本堂ならびに墓地前の88体の弘法大師像が、87の寺寺を巡ってきた私たちを迎えてくれた。
また、ここでも、最初の時と同じように、先達の御朱印をカメラに納めさせて頂いた。(右写真)平成26年3月28日が読み取れる。 |
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文殊院入り口 |
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文殊院本堂 |
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めぐってきた87寺を現す弘法大師座像 |
何の塔かしら? |
塔の四面を囲む座像たち |
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大山道の入り口にある、第77番札所 仏乗寺 |
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第77番札所・仏乗寺で、30年ほど前、三田の土地を処分し、売りに出ていた大山の麓の山深いところにある割烹「蓑庵」を買い取り、お寺を移した。
我々が訪ねたのは、2012年10月中旬でした。小田急線秦野駅からバスで終点の蓑毛まで行き、そこから人気のない谷川に沿った道を登っていくと、大山道の分離点に辿り着いた。そこに元割烹の建物があった。かなり前から営業していないのか荒れ果てた感じがしましたが、脇の山門を入ると中は広く、お稲荷さんや滝行などあり、弘法大師像はないが、弘法大師塔があった。その先に立派な本堂があった。 |
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仏乗寺本堂、左下に平和観音
右下方にお稲荷さん |
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仏乗寺 の質素な山門
今は廃業している割烹のわきにある |
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滝行 |
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滝行の脇に弘法大師の塔 |
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バスの終点から谷川にそう道を辿る
20分ほど登る |
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大山参り蓑毛の道と別れるところに仏乗寺
「熊出没注意」の看板がある |
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御府内とは江戸時代奉行所の支配した江戸の市域で、西は亀戸、東は代々木近辺、南は大崎、品川近辺、北は上尾久の内側と定められていた。御府内88札所巡りは宝暦年間に、この中にある88の寺を巡る遍路を、四国88札所を模して作られた。札所に限らず、江戸時代寺の多くは三田寺町界隈、浅草、隅田川界隈、谷中界隈に集まっていた。従って御府内88札所もこの3地域で4割以上を占めている。近代の都市の変化や災害で郊外に移った寺も多い。一番遠くに移ったのが前述の、第77番札所・仏乗寺だ。秦野市蓑毛の大山道入り口にあり、一日がかりの巡礼になった。 |
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追記 カメちゃん4月のつぶやきです(無知の旅人に掲載したものです)
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今日は私の食事風景をお見せします。ご主人様の無知の旅人が、好物の焼き魚をくださいました。前にもお話ししたように、数年前の夜、庭に紛れ込んだハクビシンに左前足の一部をかみ切られ、上手に食べられません。大きな口を開け、ちょっと恥ずかしいです。 札所巡りを終えた無知の旅人は、撮ってきた写真から江戸の庶民信仰を引き出そうとしたのですが、知識がなく無理でした。
相変わらず無知ですね!!
困ったときは、お地蔵さんにお願いする。江戸庶民のこの知恵は会得したようです。
「御府内八十八札所のお地蔵さん」をご覧ください |
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